総評
今回の夏の陣では、光、暑さ、蝉時雨、積乱雲、青葉、祭りなど、夏ならではの題材が数多く寄せられました。その一方で、単に季節を写し取るだけでなく、写真から音や記憶、神話、身体感覚までを引き出した作品が上位に残ったのが印象的でした。
写真俳句では、写真に見えているものをそのまま言葉に置き換えると、どうしても説明に近づいてしまいます。今回の選考でも、惜しい作品の多くに、発想や言葉の力は十分にありながら、その言葉が少し前に出すぎて、写真の余白を狭めてしまう傾向が見られました。反対に、上位作には、写真と言葉のどちらか一方が主役になるのではなく、その間にもう一つの世界が生まれていました。写真には写らない音、気配、記憶、心情が加わることで、作品に奥行きが生まれていたのです。
また、今回も五七五や季語の有無だけで評価することはしませんでした。季語がなくても写真が季節を語っている作品、定型を外しながらも写真との響き合いによって成立している作品もありました。森村誠一氏が写真俳句に求めた自由闊達さとは、形式を崩すことそのものではなく、写真と言葉の出会いから新しい発見を生み出すことにあると感じます。
夏の陣を通じて改めて感じたのは、写真俳句の魅力は「写っているものを詠む」ことではなく、「写っているものから何を感じ取り、何を言葉として差し出すか」にあるということです。次の季節にも、それぞれの感性から生まれる新しい景色との出会いを楽しみにしています。
特賞
吊るされてなほ陽を喰らふ明石蛸

神長 誉夫
干され、身動きのできない蛸を「陽を喰らふ」と捉えた発想が鮮烈です。「吊るされて」という受動的な状態から、「喰らふ」という力強い動作へ一気に反転し、写真の中の蛸に旺盛な生命力を与えています。写っているものを説明するのではなく、言葉によって写真そのものの意味を変えたところが秀逸です。夏の強い光、土地の風物、生命の逞しさが一体となり、写真と言葉の間に新たな世界を生み出した、写真俳句として完成度の高い作品です。
次点
パセリから滴るほどのひとりごと

繁泉 祐幸
滴そのものを詠まず、「滴るほどのひとりごと」と表現したことで、静かな植物が絶え間なく何かを語っているような詩情が生まれました。写真と言葉が近づきすぎず、互いに余白を残している点も魅力です。目に見えるものから、目には見えない声や気配へと読者を導く、写真俳句ならではの距離感を備えた作品です。
季節賞
あざやかな積乱雲に飽きてくる

芝哲也
夏空にそびえる積乱雲を、壮大さや美しさとして讃えるのではなく、「飽きてくる」と捉えた視点が新鮮です。鮮やかな青空と積乱雲の写真だからこそ、この一見そっけない言葉がよく効いています。暑さが続き、美しい夏景色さえ過剰に感じられる人間の実感が、率直で現代的です。季節を理想化せず、その長さや倦怠まで含めて「夏」として捉えたところに、この作品ならではの味わいがあります。
注目作品

透く朝の底音ひとつ牛蛙
yuriha
蓮の静かな朝景に、写真には写らない「音」を持ち込んだところが秀逸です。「底音」という言葉が、水面の下から響いてくるような牛蛙の声と、朝の静けさそのものを表しています。写真を説明せず、視覚に聴覚を加えた写真俳句らしい作品です。

来客の予定なき午後蝉時雨
山田由紀子
人のいない座敷と「来客の予定なき午後」がよく響き合っています。何も起きない時間を、蝉時雨がかえって濃密なものにしています。大きな事件を詠まず、日常の空白を作品にしたところに味わいがあります。写真の余白を生かした静かな秀作です。

命ときはなちあとは詩になる空蝉
森下紙魚
空蝉を単なる「抜け殻」や生命の終わりとして捉えず、「命を解き放ったあと」とした発想が印象的です。さらに「あとは詩になる」という結びによって、空蝉そのものが存在の余韻へ変わっています。思想性と詩性を併せ持つ、強い個性のある作品です。

地獄門撮る君の眼には寒月
牧野映樹
「地獄門を見る人」「それを撮る人」「その眼に映る寒月」という幾重もの視線が作品の中にあります。写真を撮るという行為自体を俳句の題材に取り込んだ点が興味深く、写真俳句ならではの構造を持っています。静かな緊張感と余韻の深い作品です。

涼しき古道案内は八咫烏
堀ノ内和夫
古道の景色と八咫烏という神話的存在を自然につないだ一句です。「案内は八咫烏」とすることで、目の前の道が単なる散策路から神話の世界へ変わります。「涼しき」も景観とよくなじみ、写真の場所性と日本文化的背景を巧みに融合しています。

「日本写真俳句大賞夏の陣」の選考を終えて(NOTE記事にリンクしています)